アバンセライフサポート会長のつぶやき

ボランティアを始めとした社会貢献への思い

  1995年1月17日午前5時46分、阪神淡路大震災が発生、その日私は京都経営者協会の新年互礼会に参加する予定で、何も知らずに尾張一宮駅で切符を買おうとすると、「新幹線は止まっています。関西で大きな事故があったようです。」と言われ、会社に戻ると当社でも震災の全容はまだ把握できていない状況でした。
私の秘書さんも「何かあったようですね。」と言いますが、よくは分かりません。インターネットもまだそれほど普及していない時代、NTT の通信網が寸断されるとすぐ隣で何が起きているかも分からない。今考えてみると嘘のような話ですが、つい30年前はまだそんな時代でした。3日程経ち、神戸市役所から緊急の電話が入り、「避難所になっている公民館や体育館に外国人が沢山いるが、人数が多く神戸市では対応出来ないため、通訳ボランティアを出してくれないか」と要請がありました。私たちにも出来ることがあるんだと、早速ペルー人とブラジル人を数名送り出し、今でこそボランティアマインドが高いと言われる当社グループですが、ボランティア活動の始まりは阪神淡路大震災でした。

  次に2011年3月11日午後2時46分、東日本大震災が発生、その時私は一宮のオフィスで会議中でしたが、震度3弱で少し揺れたなと感じる程度でした。しかし、愛知の私たちと違い、箱根より東は大変、東北地方は地震と津波、東京を始めとした関東地方は原発事故による放射性物質の拡散及び風評が飛び交い、その夏は東京電力が電力供給までストップするのではないか、工場もストップ、ビルも家庭もエアコンなしの夏を過ごさざるを得ないのか等、阪神淡路大震災の時代とは全く違うネット社会特有の現象がわき上がり、炎上、フェイク、サーフィンをする人たちが闊歩することとなりました。震災の年の夏、天皇陛下がいつも行かれる那須の御用邸ではなく軽井沢で静養されると、「那須の地価が下がった」というように、どこまで行っても風評流布がついて回りました。私たちは2011年5月の連休に日系ブラジル人30数名を引き連れ、三陸海岸気仙沼まで炊き出しに行き、約2000人分の焼肉丼を2日間に渡り振舞いました。サッカーのFC岐阜監督のラモス瑠偉さん、俳優の渡辺謙さん、南果歩さんも現地にいらっしゃり、避難中のみなさんを少しでも元気づけようと一丸となっていました。というのも、前回経験した時も震災ボランティアは1~2か月の間は沢山来ましたが、それを過ぎるとパタッと止まったと言われ、それではいけないと 5 月の連休に訪れることにしたのです(少し暖かくなってからであればボランティア活動をしたい人たちも増えるだろうと考えて)。
  さて、今回の能登半島地震は、地震の凄まじさとともに、ボランティアを始めとした社会貢献への思いが過去とは全く違う、大きな「共助・公助」、「一人は皆のために、皆は一人のために」社会が近づいた熱気が感じられます。
福祉だけをとっても、福祉避難所に対し職員派遣費は災害救助費から、旅費及び宿泊費も災害救助費から支払われます。社会福祉施設等への応援派遣についても、事業者は立替払いはするが、全て災害救助費から支弁されることになります。被災地に職員を派遣したことにより、職員が一時的に不足し、人員基準を満たすことが出来なくなるなどの場合があっても、介護報酬、人員、施設、設備及び運営基準などについて柔軟な取り扱いをするとなっており、岸田総理の大盤振る舞いには目を見張るばかりです。予備費も5000億円を1兆円に積み増し、なんとなく選挙が近いことを感じさせますね。今は人命救助、道路や通信、上下水道等インフラ支援が中心で、自衛隊、消防、警察等行政による支援ですが、次には我々の出番が待っています。3月位から始めたいのが炊き出し、避難所へのマッサージ師の派遣、介護施設の支援もしくは受託、過疎地域は流出が止まらないので定住人材の受入れ等も行っていきたいと考えています。みなさんで知恵を出し合いませんか。

2024年1月26日(金)

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