「幸せに人生を全うする」福祉を当たり前に
こんな話を聞きました。ある特別養護老人ホームに入所していた女性が老衰で呼吸停止になり、施設から救急車で運ばれました。コロナ禍で何軒かの病院で断られ、ようやく受入れていただけた病院に着いた時にはその方は亡くなっていました。亡くなってから来られてもと病院側は戸惑い、見知らぬ人なので死亡診断書もそこでは書いていただけなかった。ご遺体は霊安室に置かれ、病院は警察に通報、警察から要請された監察医が不審死ではなく老衰死であることを確認してようやく死亡診断書を書いていただけたとのこと。家族が限りなく小さくなっていく現在(東京では世帯数の半分近くが独居)、施設が家庭の代替機能を果たしつつあります。病院に行くと、100歳近い人が心肺停止になっても延命処置をすることがあります。奇跡的に蘇生しても認知症が悪化、食事がとれず、胃瘻を造設し植物状態になり、生かされるだけの余生となり、廉価な介護保険から高額な医療保険の対象になっていきます。我々日本人は死生観が脆弱で、死に至るプロセスに自己決定を持ち込みませんね。末期になって「先生どうしましょう」と医師に全てを委ねる人がほとんどです。医療を医師に委ねるのは仕方がありませんが、自分がどんな死を望んでいるのか(胃瘻やパイプだらけの死か、穏やかな死か、最後の瞬間まで自分らしく生きたいのか、自分をなくし、肉体のみが生きる状態を望むのか)、生前から家族にも友人にも医療福祉関係者にも伝えておくべきでしょうね。
キリスト教徒やイスラム教徒は、死んだら神のもとに行くのだと死後のルートが決められています。だから水先案内人として牧師さん(プロテスタント)や神父さん(カトリック)は介護施設や病院へ当たり前に出入りします。しかし、僧侶はあまり歓迎されませんね。葬式仏教に成り果てた悲しさですね。人は死ぬことが怖く、死の恐怖が人類を永続させています。秦の始皇帝は不老不死の薬を求め世界の隅々まで探させたようですが、見つけることはできませんでした。当たり前ですね。医療は「死は敗北だ」という考え、1分1秒でも長生きさせることを目的とします。しかし、人の寿命は無限ではありません。人の死、「死生学」については医学部では教えないようです。ひたすら延命しようとします。葬儀屋さんは言います。「昔は枯れ木のようになって亡くなるのが当たり前だった。今は丸々となって亡くなる人が多い。」我々福祉に生きる者は今一度平穏死(安楽死ではありませんよ)を考える必要がありそうです。
狭き門より入れ、
滅びに至る門は大きく、
その道は広く、これに入る者は多し。
生命に至る門は狭く、
その道は狭く、これを見いだす者は少ない。
(新約聖書『新約聖書マタイ福音書』より)
福祉業界に入職することも、介護保険を受給することも「広き門」でした。有料老人ホームに入居すると介護保険込みで35~40万円、医療に移動して胃瘻、「経鼻胃管栄養」でおよそ100万円。医療費だけがどんどん膨らんでいきます。苦しい思いをして1か月~1年を生きながらえる、このつけを若者が払うのです。若い世代の労働意欲が落ちてきているのは、若者は本能的に誰も幸にならないこの矛盾を感じ取っているからなのでしょう。
社会矛盾をビジネスモデルに社会の価値観を変え、「期間」でなく「幸せに人生を全うする」福祉を当たり前に考えることは出来ないものでしょうか。南アフリカ共和国について、ドイツで「アパルトヘイトはひどすぎるよね」と言うと、白人のドイツ人は「1%の白人が99%の黒人を食べさせているから、南アフリカはアフリカで最も裕福なのだ」と言います。白人社会にいると格差の矛盾は見えなくなるのですね。日本国内においても同じで、持てる者と持たざる者の格差は大きくなっているのに見えなくなっています。福祉施設から病院に転院すると、あっという間に数倍の医療保険になっていきます。福祉は医療の球拾いになっているのに、誰ひとりおかしいとは言いません。「幸せの国」ブータンは福祉の後進国でしたね。
2023年04月03日(月)