肝に銘じ、毎日を過ごしたい
私の極々身近な人が癌になりました。乳癌です。片方を切りましたが転移があるようで、もう一方も今月末切除の予定です。最初に知ってから約2か月、動揺しまくっていた私の心もようやく落ち着きを取り戻しつつありますが、当初は茫然自失、頭が真っ白になるというのか、ただただ「死」が頭を駆け巡りました。癌患者の心理状態の遷移というので「衝撃段階」、「不安定段階」、「適応段階」と3段階あることは皆さんも聞かれたことがあるでしょうが、私たち家族も学び、実態が把握できるにつれ精神が平安に近づき、冷静に考えることが出来るようになってきました。
今私はヴィクトール・エミール・フランクルの著書『夜と霧―ドイツ強制収容所の体験記録』を読んでいます。彼はオーストリアのウィーンで生まれたユダヤ人の精神科医です。ナチスドイツに捕まり、あの身の毛もよだつアウシュヴィッツ始め四つの収容所に収容され、運よく辛うじて生き残り、戦後解放され、ひとりウィーンに戻った時は40歳、あるべき妻子や両親は全て収容所内で殺され、再会は叶いませんでした。その深い失意の中で書き上げたのが『夜と霧』でした。以前に読んだことはありますが、その時は面白くもない本で途中で投げ出しましたが、今回はスーッと心に入ってきます。本でも仕事でも人間関係でも、心に受入れ準備が整っているのといないのではこんなに違うものなんですね。。
人間はあらゆることにかかわらず──困窮と死にかかわらず、身体的心理的な病気の苦悩にかかわらず、また強制収容所の運命の下にあったとしても──人生にイエスと言うことができるのです。
『それでも人生にイエスと言う』(V・E・フランクル[著]、
山田邦男 松田美佳[訳] 春秋社)
彼は『夜と霧』の中でこうも言っています。
「あなたが経験したことは、この世のどんな力も奪えない」──私たちが過去の充実した生活の中、豊かな経験の中で実現し、心の宝物としていることは何も誰にも奪えないのだ。そして、私たちが経験したことだけではなく、私たちが成したことも、私たちが苦しんだことも、全てはいつでも現実の中へと救い上げられている。それらもいつかは過去のものになるのだが、まさに過去の中で永遠に保存されるのだ。
フランクルは、強制収容所でこの苦しみがいつまで続くのか、いつ元の平和な生活に戻れるのか、期限が分からないことにみんなが苦しんだといいます。クリスマスには解放されるとか、3 月30 日に解放されると夢でお告げを受けたとか言い、叶えられなかった人たちは急速に抵抗力を失い、命を落としていったといいます。人は遠い近いはあるにせよ、いつかは死ぬのです。未来は誰にも分かりません。だからこそ、今を生きる意味に目を向けるように仲間に話しかけたのです。人には決して奪われぬものがあるといいます。一つは運命に対して自らの態度を決める自由、もう一つは過去からの自らを光としてとらえる自由です。様々な病から生き残るため必要なものは体力ではなく、今を受け入れる平穏な心、これなのでしょうね。
極限の社会に翻弄され、辛うじて生き抜いたフランクルですが、不思議なほどナチズムに対する怨みつら
みの発言はありません。
≪ナチズムは人種的狂気をひろめました。けれども、本当に存在するのは二つの「人種」だけです──品格ある人たちと、そうでない人たちと。この「人種」の分け目は国際社会にも、また国内の政党の間にもあります。強制収容所のなかでも、ときにはちゃんとした親衛隊員に出会うことがありましたし、またならず者の囚人もいたのです。ちゃんとした人たちが当時少数だったこと、またいつもそうだったこと、これからも少数派にとどまることを、私たちは受けいれるしかありません。事態が危険になるのは、政治体制が国民のなかからならず者を選んで上に行かせてしまうときです≫(”In Memoriam 1938” 全集第二巻)
「フランクル『夜と霧』への旅」(河原理子・平凡社)
彼はだからどこの国だって、どの会社だって、どの施設だって、形を変えたホロコーストを引き起こす可能性があるというのです。私たちも肝に銘じ、毎日を過ごしたいものですね。
2023年06月02日(金)