「生きる」とは何か
6月7日、製薬会社のエーザイと米バイオジェンが開発した薬がアルツハイマー病疾患修飾薬として世界で初めて米国で承認されたと大きく報道されました。ただこの薬は治療薬ではなく、進行を遅らせる薬で、1ヶ月に1回服薬し1回当たり日本円でおよそ 50 万円が必要です。血圧降下剤と同じで、止めるとリバウンドが大きく、飲み始めると生命が終わるまで一生涯飲み続けることになります。1年で610万円、内7割は保険で賄うとして 1 年間の本人負担は183万円、この金額は薬代金のみで、老人ホーム、家族の生活費を含め命のある限り何年続くのか先の見えない膨大な支出を強いることになります。そして、現在認知症患者約600万人のうち 50万人~100万人が服薬すると膨大な財政負担になります。 私が社会福祉法人で 4 か所の特別養護老人ホームを経営していることはみなさんもご存じでしょうが、ホームの利用者さまの 60~80%の方に認知症の症状が認められます。最期をどう過ごすか、言い換えればどう死ぬかをいつも考えさせられます。
私が生まれた1950年は、自宅死がおよそ90%病院で亡くなる人はおよそ10%だったようです。医療的な処置をほとんどせず、植物が枯れていくような自然な命の終わりを迎える「平穏死」が大多数だったわけです。今は逆で、介護施設も含めると90%近い人たちが自宅ではない環境で亡くなっています。葬儀の規模が年々小さくなり、今は家族葬が主流になっているように、5~10年施設にいるとご近所の縁が遠くなり、新たな施設の縁が強くなりますよね。施設はプロの集団ですから、プロに任せると栄養状態が悪ければ経鼻胃管もしくは胃ろうで人工栄養のお世話になります。自発呼吸ができなければ人工呼吸器が助けてくれ、「延命治療」で命が尽きるまで医学が支えてくれます。「安楽死」が時々問題になりますが、これは「延命治療」とは真逆です。先日医師が筋萎縮性側索硬化症の女性を薬物で死亡させ、嘱託殺人罪を問われ逮捕されたのは、患者からの「苦しい、早く死なせて」という要望に応え、呼吸筋を止める注射で筋肉の動きを止め「安楽死」させたものでした。「自然死」「平穏死」「尊厳死」は物理的な手を加えることがないのでコストがかかりません。江戸時代は「年寄りは食べられなくなったら水を与えるだけ。そうすると苦しまないで静かに息を引き取る。水だけで1ヶ月位は保つ」と言い、最後に死ぬ時にだけ医者を呼び、これを「医者を上げる」と言い、まさに儀式としての診療だったと言います。現代はひたすら長生きが尊ばれ、80 歳台で手術をするのも不思議ではない、当然とも言われる時代になっていますね。
今回の新型コロナ禍でもっと大きな不平等が見えてきました。それは機会の不平等です。教育はそれを打ち消す最大の投資ですが、その投資効果は絶大で、東京大学卒の家庭の約半数は別荘を所有しているといい、先日も東大卒で投資ファンドに勤める青年に東大卒のメリットを聞くと、「人生の選択肢が全く違う」と言います。彼はお金を求め勤めて5年で年収4,000万円の先輩に誘われ、外資系の投資ファンドに入社しましたが、今の年収を尋ねると「4,000万円です」と答えました。高校卒に比べ年収比で10倍以上、圧倒的な格差や不平等が社会には存在します。
アルツハイマー病だけではありません。癌や脳梗塞等循環器系の特効薬が開発され、劇的に寿命が延びるようになり、医療コストが国家予算の大部分を占める時代が来るようになって、国民的合意が得られるのでしょうか。もしくは医療の世界も経済と同じように金が全ての格差社会が広がるのでしょうか。野生の動物に青年・壮年期はありますが老年期というのはありません。獲物を捕る体力・能力が失われれば自然に亡くなっていきます。魚は卵を産んだら親は死んでいくのが自然で、要するに次の命を生み育て、 DNA を伝え、種を永らえるのが私たちのミッションなのでしょう。人間は生命の伝達という最大の使命を忘れた動物なのかもしれません。「生きる」とは何か、今こそ分水嶺に来ているのかと感じています。
2021年8月31日(火)